労働新聞 2002年9月15日号 青年

ナンセンスな日米関係

沖縄ツアーで痛感
足元から模索し行動したい

大学生 平川和樹(18歳)

 先日、私はある大学サークルの沖縄ツアーに参加した。私にとって、初めての沖縄訪問である。

■嘉数の高地■

 初日に観光を満喫し、2日目は嘉数の高地へと向かった。途中、米軍基地に星条旗と日の丸が掲揚されており、「どっちもいらないね」と友人と意気投合。
 嘉数の高地は沖縄戦の激戦地で、高台に登ると普天間基地が展望できる。基地は、町の真ん中を占拠して図々しくも寝そべり、大きな滑走路を恥じらいもなく見せている。ここで石川元平氏(元沖縄県教職員組合委員長、普天間基地爆音訴訟原告団共同代表)にお話を聞いた。
 石川氏は琉球の歴史や文化を織り交ぜながら説明された。特に日本軍沖縄守備軍司令官の牛島中将の自決は興味深い。牛島中将が「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」と言い残して自決したことで、その下の何万の日本兵は捕虜にもなれず無謀な闘いを命じられた。民間人も「集団自決」を強要・誘導されたということだ。
 その後、1996年の安保再定義や朝鮮民主主義人民共和国と日本の関係について、「日米安保、そして沖縄の米軍基地は、これまで朝鮮統一の夢を阻害してきた。2年前には南北首脳会談が実現したが、その空気を壊したのも日米であった」と話された。


普天間基地を一望する嘉数高地にて石川元平氏より話を聞く

■安保が見える丘■

 石川氏と別れた後、私たちは嘉手納基地ゲート前の通りを散策した。いかにも米国風のショーパブが立ち並んでいる。なんということだ、近畿では考えられない事態だ。やはり、基地とはそれだけ異常な存在なのである。
 次に、「安保の見える丘」に行った。ここからも嘉手納基地の巨大な滑走路が見え、時折軍用機が離発着を行っている。どこまでが基地かと友人に尋ねると、見渡せる範囲はすべて基地だとの回答が返ってきた。改めて、基地の広さを認識した瞬間であった。
 その後、有銘政夫氏に会ってお話を聞いた。有銘氏は軍用地の契約を一貫して拒否している反戦地主であり、私たちに沖縄の米軍基地がどのようにつくられていったかを説明された。米軍は「銃剣とブルドーザー」によって暴力的に土地を強奪した。50年代に米軍が土地の一括買い上げを行おうとしたが、土地を売り渡したら「第2のハワイにされる」と、10万人集会を行って闘った。あの時米国に買い上げられていたら今ごろ大変な事態だったろう。体を張ってわれわれは土地を守り通した。また、復帰後、日本政府は権力と法律を使って徹底して土地返還運動を妨げてきた」。
 政府による反戦地主へのいやがらせによって日本復帰直後は3000人ほどいた反戦地主が、今では120人ほどにまで減少させられた。
 95年の少女暴行事件をきっかけとする反基地運動の盛り上がりを受けて、沖縄の負担軽減の名目により、米軍の実弾砲撃演習が本土五カ所に移転した。しかし実際は、沖縄で不可能だった大規模・高度な演習を行えるようになり、かつ今まで海外で行っていた軍事演習を「思いやり予算」を使って本土で行い、米国は非常に喜んでいる。「沖縄の痛み分けというのはウソ。どこまでも米国の都合によって行われている」と指摘された。
 有銘氏は最後に、「今の有事法制は沖縄の現実を合法化するもの。闘いの中で見えてきたことは憲法と安保の矛盾。安保が沖縄の現実だ。基地問題が終わらない限り、沖縄の戦後は終わらない」と述べられた。

■平和の礎■

 旅もなかばの3日目、糸満市の平和祈念資料館へ。残念ながら中を見て回る時間的余裕はなかったが、隣にある「平和の礎(いしじ)」という、沖縄戦の戦没者を国籍の別なく刻銘してある石碑を見学した。そこは、沖縄本島南部で当時米軍の陸上と海からの攻撃に追い込まれた最後の激戦地である。そこの断崖絶壁から身を投げた人もいたという。
 また、平和資料館と平和の礎の間の広場で、私は小泉首相や稲嶺知事が戦争美化を現実に押し進めようとしている証拠をこの眼でとらえた。「戦中の米軍のキャタピラと魚雷」の展示である。友人によると昨年までは、これはなかったという。
 ところが、この武器がどれほど人びとを恐怖へと追いやり、そして命を奪ったかなどまったく説明されてはいない。一体これを眺めたところで、どうやって反戦や過去の過ちについて考えが及ぼうか。行政が平和祈念の施設を戦争館にしてしまいたいことがありありと伝わってくる産物であった。

■アブチラガマ■

 その後、私たちは平和ガイドの方の案内のもと、アブチラガマへ入った。ここは、当時住民の避難壕(ごう)であったが、日本兵も使用するようになり、多くの負傷者が収容された。ひめゆり看護隊も派遣されたそうだ。ガイドの方が当時の跡を一つひとつ丁寧に説明して下さった。中は足場が水で濡れており、懐中電灯なしでは何も見えない。撤退令が出た時、動けない重病人は置き去りにされ、多くが死んでいったそうだ。
 ガイドの方が灯りをすべて消すことを提案。私たちはほんの束の間であるが、隣の人さえ確認できない暗闇と静寂を体験した。「戦争は人の手によって生み出されるものだから、人びとによってくい止めることができる」と、何度も力説して下さった。  

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 翌日、復帰運動を中心的に闘われた福地曠昭さん(沖縄人権協会理事長、沖縄ベトナム友好協会会長)のお話を聞くことができた。
 沖縄戦では兵士よりも民間人の死亡の方が多く、この現象はその後ベトナム戦争、湾岸戦争へと続いているそうだ。米軍政時代には、あらゆる書物・新聞は英文に訳して米軍の許可が必要で、戦前以上の検閲だった。米軍機の墜落事故や事件も後を絶たず、非常に困難な時代だった。そして、本土復帰は沖縄の人だけでできたとは思っていないし、日本国民だけでもない。ベトナム解放との連帯など国際世論の高まりなしには、米国を孤立させることはできなかったと強調された。
 また現在の沖縄は失業率も2倍程度、自殺者も多く、沖縄戦の後遺症で精神障害者も本土の2倍だという。沖縄は一見活発で明るく見えるがこういう面もある。さらに現在進んでいる普天間基地の移設は実質的に基地の拡大であると批判された。「沖縄には2つ憲法がある。1つは日米安保だ。むしろ安保の方が優先されている」との言葉は、現実味がある。

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 こうして私たちのツアーは終わっていくのだが、私たちは非常に有意義な時間を送ることができた。私と同じく初めて沖縄を訪れた人は、「こんなに基地があるとは思いもよらなかった」と、率直に感想を述べていた。
 沖縄の反戦運動は、本土とは一味違っていた。ここでは、あの時起こった悲惨な状況を伝えるだけでなく、米国及び日本政府が沖縄に対してどのような扱いをし、戦後57年の間、どんなに沖縄を利用したかを伝えている。
 戦時中にどれだけ国民の日常生活が厳しく、空襲や原爆がどれほど恐ろしいかを伝えるとともに、天皇および日本政府が自身の利益のために、アジア諸国はもちろんのこと国内でどのようなことを行い、なぜそのような行動に至ったのかを、私たちはしっかり認識し強調していかなければならないのではないか。
 今回のツアーで見た沖縄の現実は、わが国がいかに日米安保条約に縛られ、米国の戦略に従属しているかを如実に示していた。まったくナンセンスな日米安保だ。日米安保を破棄してアジアの平和的共生を切り開くために、自分の足元から模索し行動していきたい。


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