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労働新聞 2017年5月15日号 投稿・通信

おれの「熊本地震から1年」(2)

熊本市・中川 新一

 十四日の地震から翌日十五日の朝。水道が出ない。団地周りを見てみると、揚水ポンプから屋上タンクへの揚水管の接続部のエル字管が外れ、ポンプが感知して補給運転状態になり、陥没したエル字管から水が噴出していたので、ポンプ室のカギを開け、電源を切った。熊本市に連絡し「このままでは五十世帯に水が供給できないので、指定管理者に連絡し対策を取りたいのだが…」。市から了解が取れ、指定管理者に連絡、すぐに来てくれたが、本来部品のエル字管の在庫がどこにもなく、仕方なく十メートル位の樹脂製のホースで出水部と揚水部を接続した。地上に丸いワッパの出現。ポンプを再稼働させ、その日の昼過ぎには屋上タンクの満水を回復させた。気象庁は「今後の余震に注意」と言っていた。とりあえず水の心配はないのでと様子見であったが、十六日夜中一時半、十四日の夜とは比較しようのない震度七の地震に襲われた。「おれ、これで死ぬな、さよなら」と思った。熟睡していたおれはベッドから床に投げ出された。家具が転倒し、食器が収納から床に落ちて割れる音が真っ暗な中、床に伏したおれの耳に入ってきた。電気は着いた。玄関の長靴に履き替え、家の中を見ると家具が散乱、割れたガラスや皿が床に飛び散り、めちゃくちゃに。
 火の元をチェックし、ブレーカーをおとしてから公園に集まると、皆が集まっており、十四日の夜と同じように安否確認を行った。幸いけが人はなかった。役員が集まり対策を話し合った。その場で七人の役員の意思を統一した。自治会長が「今度の地震は前回と違います。電気はついていますので、集会室を開けます。安全のため、車中泊をお勧めします」と呼びかけた。皆、集会室(五十帖程あり、調理場もありトイレもある安全性の強い鉄筋コンクリートの平屋建て)と駐車場で夜を明かしたが、この間にも数時間おきに地震が続いた。
 夜が明けて真っ先に点検したのは応急でつないだ揚水用のホース。よかった、伸縮性が幸いしてつながっていた。屋上タンクからの水漏れもない。団地は都市ガスではなく、プロパンであったので、ガス屋に安全を点検してもらった。水、電気、ガスこれらはまったく問題ない。しかし、団地周りは大きく陥没し、雑排水のパイプは破断し、通路の敷石が二千個外れていた。いつまた大きい揺れが来るか分からず、お母さんたちの提案で炊き出しが始まり、地震の被害のない遠いところまでコメを買いに行った。その後二週間、集会場や車で寝泊まりしながら皆で助け合って生活をした。ガスも水もOKで、シャワー(五十件分ある)でさっと済ませた。同じ学校の子供たちがここの子供たちの家にシャワーをもらいに来て子供たちでにぎわった。一人暮らしの老人宅には男三人くらい組んで転倒した家具の片づけをしたりした。
 テレビや新聞で被害のひどさがわかってきた。死者三十二人、ケガ人一千人以上。避難者九万人(一時期、最大十八万人までに)。ここから一キロ離れた益城町は二度目の地震で多くの家が全壊し、多数の死者が出た。十四日から十七日まで震度四以上が六十八回。震度一以上は三百九十九回に及んだ。
 五月に入り、おれは本格的に市役所に通うようになった。自治会が実施した各部屋の被害状況の調査を持参し、また団地共用部の被害写真を手にして訪れるのが仕事になった。同時に自分の部屋の片づけもしなくてはならず、七月までかかった。
 六月頃から少しずつ復旧作業が始まった。陥没した通路の埋め立て。破断した雑排水管の復旧。地下で破れた外部散水栓の復旧。床下トイレ横引き管の亀裂復旧。復旧までに一年を要した。振り返ったとき、市へ出向いたのが十回。市や業者との打ち合わせの電話五十七回。市へ文書申し入れ七回。業者や市の職員との立ち合い二十八回。自治会役員との話し合い十四回。長かった二週間だった。
 しかし、振り返るともう一年。いまだに家をなくして仮設住宅で暮らしている人びとがたくさんいる。「創造的復興」より一人たりとも置き去りにしない、生活の復興を願っている。


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