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労働新聞 2016年4月25日号 投稿・通信

震災後1週間 被災地からの声 
類のない連続大地震、
長引く避難生活

地産地消の強みも実感

熊本県宇城市・松本 義男

四月十四日(木)
 午後九時二十六分頃、いきなりドドーンと強い横揺れが始まり、地震報道でよくあるテレビ局屋上カメラからの映像のように、目の前のテレビそのものが激しく横揺れを始める。家中がバリバリと音を立てる。激しい揺れに立ち上がることもできず、食卓テーブルにしがみついたまま思わず叫び声を上げた。
 この時はまだ大きな被害となるとは予想せず、寝ようとしていると約三十分後にかなり強い余震が。「大変なことになった」と身の安全を考えて、食堂のテーブルの下に頭を入れて寝る。午前〇時を回ったところで、さらに強い余震(震度六強)がくる。

四月十五日(金)
 朝、畳の部屋や廊下にガラス障子や飾り窓などのガラスの破片が散乱し、ふすまは真ん中からへし折れている。廊下のサッシ窓(大きいのでかなり重い)はレールからから外れて溝やガイドに食い込んだり、カギがねじ切れており、あまりの破壊力の強さに驚いた。外部も壁の一部が剥がれ落ちて痛みがひどい。
 幸い、電気と水(井戸水をポンプアップしている。地震後かなり濁る)とガスは大丈夫だったので、朝食を作って食べることはできた。かろうじて生き残ったテレビには震源地の益城町や熊本市内の惨状が映し出されている。「震度七」という数字にあらめて驚いた。
 夜は、玄関の明かりや常夜灯をつけたまま、前夜のように食堂のテーブルの下に頭を突っ込んで眠る。

四月十六日(土)
 深夜一時二十五分頃、寝入っていると突如ダダダーンと音がして、家全体が、天井も壁も床も暴れるように揺れ続けた。テーブルの下で必死に体を固くして、収まるのを待った。揺れ方は十四日の比ではない。時間もとても長い気がした。あちこちでドスン、バタンと壁か崩れる音がした。
 台所への水道管が破損し、水が台所の外で激しくほとばしる。あわてて外に出て手で押さえるが水圧が高くて止められない。大家さんが飛んできて、井戸ポンプの電源を抜いて水を止めた。やっと収まったかと思ったら、また次の余震が襲ってきた。何度も何度もダダ―ンと強い余震が襲って、本当に死ぬかと思った。
 二時過ぎ、このままでは家の下敷きになってしまうと思い、庭に止めてある車の中に毛布一枚を持ってあわてて避難した。家が倒れても車まで来ないようになるべく家から車を離した。
 夜が明けると前日よりいっそう無残な姿になったわが家が目の前にあらわれた。崩れかけていた玄関横の外壁は完全に崩れ落ちて内装のベニヤ板がむき出しになっていた。崩れ落ちて空いた押し入れの大きな穴から外の景色が見える。
 台所は比較的助かった。食器は奇跡的に無傷。
 気象庁は、今度の地震を解説して「十四日は前震で、十六日がM七・三の本震だった」と言っていた。その後いろいろな解説者や学者が、断層だどうだとかあれこれ解説していたが、結局だれも予想できなかったし、現在の科学の水準では地震の予知など不可能なのだと分かった。
 この本震の後から、余震が数分〜十数分毎に頻繁に来るようになった。
 翌日は強風雨という予想だったので宇城市をはじめ周辺自治体が避難勧告を出しのでこの日から避難所となっている近くの小学校の体育館に移動した。いたるところで道路が陥没、亀裂、橋が渡れないところなどあって回り道を余儀なくされた。あちこちに消防団などが交通整理をしていた。
 受付を済ませて中に入ったが、避難所にはすでにたくさんの人が集まっていた。夕方だったので一人一個のパンとお茶が配られた。「五百個用意しましたが、足りなくなるかもしれませんが申し訳ありません」と事前に放送があった。それで五百人以上は来ているのだなと分かった。
 体育館の中に入り切れない人は外の運動場に止めた車に車中泊となった。何とか寝る場所を確保して横になったが、周りを見回すと高齢者だけでなく、家族全員で避難という感じで、子供連れや若い人たちも多かった。断続的に余震が来るので、そのたびに皆が身を固くして天井を見上げる。なかなか寝付けず、眠ったと思ったら余震で目が覚めるのを繰り返しているうちに夜が明けた。

四月十七日(日)
 朝起きて、わが家へ戻ってみた。電気、ガスは通っているので、ポリタンクの水を使って朝食を作って食べる。その間にもドーンと余震がくるので、そのたびに外に出る。何度も揺れ続けているので家の中は、いろんなゴミだけでなくホコリだらけになっている。逃げ出すためと汚れ対策で、靴を履いて家の中を歩き回るしかない。
 もう住めなくなると覚悟して、いつでも引っ越しできるようにと要るものと要らないものを分ける作業をすることにした。この際、思い切って「断捨離」だ。
 大家さんが水道の破損を修理してくれたので、水も出るようになったが、井戸水も汚れていて最初は黒い水がでてきた。何回か洗い流してようやく少しきれいな水になったので、風呂を入れてみた。幸い石油ボイラーは壊れてなかった。風呂に入るというより、余震にびくびくしながら急いで体を洗って出た。
 テレビの解説では、震源が阿蘇・大分方面だけでなく、日奈久断層帯の南西方向(宇城市、八代市)にも広がっているとのこと、なるほどこれまで横揺れからだけでなく「下から突き上げる」というような揺れがくるようになっている。
 この日も夜は避難所へ。救援物資が届くようになって、水や食料(パンが中心)が行き渡るようになった。

四月十八日(月)
 交通インフラはまだ回復せず。九州新幹線は脱線だけではなく線路は橋脚にも被害があって当分復旧の見込みはない。高速道路も復旧には時間がかかりそうで、わが家の前の国道三号線も渋滞が続いている。
 こんな時に国会で環太平洋経済連携協定(TPP)の特別委員会をやっているなんて、国民生活無視も甚だしい。与党はもちろんノコノコ審議に応じる野党も!
 今夜も避難所暮らし。食料等は前日よりも良くなって、パン中心だが、種類も増えてきたし、焼きそばの差し入れなどもあった。

四月二十日(水)
 夜八時過ぎに体育館に行くと「この体育館は崩壊する危険があり閉鎖に。新しい避難所はT小学校とS体育館に」との張り紙。中には人影もなく残された荷物だけがポツンポツンと置き去りになっていた。荷物をもってS体育館に向かった。S体育館に着くとすでに多くの人が移って来ていた。受付をすると百九十七番目だった。幸い寝場所だけは確保したので、やっと落ち着いて九時過ぎに遅い晩飯(握り飯と少しのおかず)をとった。
 夜中になっても震度三〜四の強い余震が繰り返しあって、震源地が天草というのもあった。ずいぶんと範囲が広がっている。
 治安も悪化してきているようで、被災して家人が避難している空き家や事務所で現金や貴金属を狙った空き巣も出始めている。隣の小川町で強盗事件も起きた。前の避難所の周りでも深夜暴走族が騒いで警察が出るなど騒ぎもあった。地域の消防団が「市職員や消防署員を名乗って回っている人がいるので気を付けてください」とスピーカーで放送して回っていた。
 相変わらず交通渋滞がひどい。トヨタやホンダ、三菱電機、ソニーなどが操業停止になっているが、地域経済にはより大きな影響が出てくるだろう。

四月二十一日(木)
 地震発生から一週間。昨夜は、余震は少なかったが、時々ドシンと揺れ、そのたびに身構える。
 商工会青年部による手作りカレーライスの差し入れ。温かい食べ物はありがたい。農家のトマトの差し入れも。
 イオンなどスーパーの大半は在庫品のカップ麺やシリアルなどは扱っているが、完全な営業再開には時間がかかりそうだ(高速道路が不通などで流通が滞っている)。それほど遠くないところにある道の駅に行ってみた。ここは地元のJA宇城が直売所を運営していて、葉物も含めた新鮮な地場の野菜類や果物、肉類や卵、弁当類なども豊富に並んでいた。びっくりすると同時に、やはり地産地消の強みだと感心した。TPPはやっぱり国を亡ぼす。
 プロパンガス屋さんが「すいません、手が回らなくて」とボンベの交換に来る。交換に回るのも忙しくて大変らしい。「熊本市内はまだ都市ガスが回復してないらしいですね」など話をすると、「災害に強いのがプロパンガスの強み」と笑顔に。
 気象庁は、今度の地震に関しては、これまでの大地震の際に必ず発表していた「余震の発生確率」について「過去の経験則があてはめられず、発表できない」として、発表を取りやめることにしたとの報道。
 今夜も避難所へ移動。体育館暮らし。


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